journal in japan

記憶の中の詩

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2007-09-11 [ Tue ]
(5)
この街の被災資料を見て、「爆心地 Groud Zero が公園でよかった」と
言った米国人がいるそうだ。
まさか。「破壊の瞬間 Zero Hour」直前まで、そこが建物と人のひしめく
生き生きとした生活の場だったということは、想像に難くない。
2001年9月11日の朝まで、WTC がそうであったように。
(今の WTC 跡地の映像を見て同じことを言う外国人がいたら、
 米国人はどんな反応をするだろうか?)

ただ私はトラムに乗って、おそらくまだ行ったことのないエリアへと向かう。
昔の家族旅行のときは、記念公園周辺でこの街の滞在時間を
あらかた消費し、たしか背骨の山地を縦断して、
反対側の地方へ移動してしまったのだ。

ともあれ2度めの土地のせいか、街の規模が小さめのせいか、
ゆったりした気持ちで車窓風景を眺める。
前々日/前日訪れた街々に比べて人の動きは緩やかだ。
それから、正直に言えばファッション・センスははるかに垢抜けない。

死の灰の中から復興したとはいえ、いちばん古い建造物は60年を超える
計算だし、のんびりゆったりしてはいても、今ここには再び
地方都市の暮らしの活気が、ある。

トラムは港の方へ走っていく。
川を渡ると、街並がいちだんと古びてきたのを感じる。
都心部から、どれくらい離れているのだろう?
爆心地からは?
そもそも私の机上の知識では、このへんは別の町というか、
隣町ではなかったか。
古びて鄙びてはいるけれど、エリアの中心らしき地点も、
通りすがりながらはっきりわかる。
はいはい、お勉強はしないルールの旅でした。

終点は港湾ターミナル。
売店がいくつか開いていたので、お弁当とコーヒーを買い、
眺望のきく待合室でやっと食べものにありつく。
空と海と、船と・・・

ふとこの街にもっといたくなり、
時間と暑さに背中を押されたこの旅の慌しさからのがれたくなり、
トートに入れてきた時刻表を調べる。
最終の東京行き新幹線・・・時間は微妙だ。
そして、もし明日の午前中に乗るとしたら・・・いや、
明日でも午前中でも、やっぱりここも東京も暑いだろう。

I.N. デザインの橋再訪も含め、あとの動きは成行き、
つまりはトラムの接続と所要時間に任せることにする。
西陽はずいぶん傾いていたが、外に出るとやはり潮風は
べっとりと肌にまつわりついてくる。
2,3ヶ所移動して、やっとフィルム・カメラで何枚か撮る。
ちょうど中央駅行きのトラムが来たので、乗る。

子供の頃、毎年夏になると父から手製の資料集を押しつけられて
食傷ぎみだったこの街の惨禍について、
帰ったらちょっと復習してみようかなと思う。
このエリアは、当時どういう状況だったのか。etc. etc.・・・
ヨーロッパのとある小さな街でフィールド・ワークをしていたとき、
案内役を買って出てくれたご隠居の名士が
私の空き時間をすべてこの種のお勉強にあててくださったことがあった。
その街の歴史と由緒。
なぜ第2次大戦末期に、市街の95%もが灰燼に帰するほどの大空襲の
標的になったか。
名士氏の家族と、ファシズムとの関係と相剋。etc. etc. etc.・・・
破壊されたこの街では、私自身の血縁も被害に遭ったのだ。
子供時代の記憶とフィールド・ワーク期の体験、
そして靉光展のカタログを抱え、靉光研究者と言葉をかわした
今日の出来事とが、またしても複合リンクする。

strassenbahn橋方面へ行く乗換停留所が近づいてくる。
でももう暗く、私は心にも手にも背中にも、
いっぱいすぎるほどのお土産を抱えこんだ気がしていた。
これ以上欲張るのはよそう。
他にも見たかった光景、行きたかった場所はいくらでもあるのだ。
それはまた、いつか。


2-3年前から日帰りの、
そしてやっとこうして、泊まりがけの旅行がまたできるようになった。
満足して、安心して帰ろう。

靉光の代表作は東京の、皇居にほど近い
行きつけの美術館が所蔵している。
また逢いにゆこう。メトロに乗って。

***
6年めの9.11.、
6年前と同じ、火曜日だという。
New York、Hiroshima/Nagasaki、Rotterdam、
そして Euroshima-Dresden etc. etc.・・・
すべての無辜の生命に r.i.p.
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2007-09-07 [ Fri ]
(4)
ところが、この話もログも、まだ終わらないのである。

また、展示を最初から最後までさらりと流す。
気に入ったシュールな細密画、日本画風・・・あたりで足を緩める。
ある友人の仕事スペース~居間スペースの壁に
H.B. と A. がかかっていたのを思い出す。
数ヶ月間の仮住まい(furnished)なので、もともとあった調度品を
そのまま使っていたのにすぎないのだが、
その絵を眺めているのが好きだった。
のちに1度は流れたものの数年後に旅を実現させた地で、
A. は数寄者の王に錬金術師として抱えられていたことを知る。
城の一角にそういう怪しげな科学者だか魔術師だかを住まわせた路地は
今は観光スポットのハイライトの1つ。
でも私たちは夏の夜、ひと気がない路地路地を回った。
フラッシュを消した400のフィルムに放縦に流れた
彩光は、まるで絵の具をチューブからキャンヴァスに
そのまま押し出したように。

関連小展と常設展をさらっと回る。
これはいつもと同じ。
いや、東京の美術展[館]なら常設展はそのうちいつか、で
出てきてしまうから、ちょっとだけ欲張っているだろう。

講演を聴く前も後も、靉光作品になんらかの思想性---政治性を
私は感じない。
さまざまな作風を経てもそこに一貫しているのは、あきらかに彼は
昭和・・・20世紀前半、大戦間期の芸術家であり人間だったということだが
それ以外にはむしろ普遍的な、芸術との対峙の姿勢が
ひしひしと伝わってくる。
では逆に、芸術至上主義に走ったにもかかわらず・・・あるいはそれ故に
ファシズムに利用されてしまった各国の、そしてとりもなおさず
日本浪曼派はどうだったのだろうと、ちらりと疑問が頭をかすめるが、、、
私は何も考えないために、旅に出てきたのだ。

常設作品の中では I.N. と M.E. を少しゆっくり観、
秋からのプロジェクト新フェーズに使えそうなヒントがあったので
携帯で資料撮影をし、パンフレット類をもらって
 <嗚呼また仕事が、紙が・・・・・・
街に戻ることにする。

・・・と、発車間際のトラムに乗りこんできた人物に見覚えが。
ここでは私は旅行者なのだが・・・本日3度め、靉光講演の講師である。
私のまん前に座ったので、一瞬迷ってから思いきって声をかけた。

素直に話のお礼と感想を述べた。
話が下手っぴなのに面白いから、私は朝から飲まず食わずだとは
言わなかった。
トラムのがたごとに声がかき消されてしまい、
講師が長身を折って聞き入らなければならなかったのは、
空腹のあまりもう声が出なかったせいなのだけれど。
彼のこういう仕事が活字発表されているか、
とくに今日の講演内容の発表予定についていちばん訊きたかったのだが、
彼はうっと唸ってあれこれの言葉を不器用に並べた。
口下手なのは聴衆の前に立ったときとか、「靉光というテーマは
自分にとっては重たいものなので」というだけではなさそうだ。
乗換停留所まで2つ、5分たらず。
演者に講演後の会場で話しかけるとかレセプションで一瞬捕獲するとか
 <後者のほうが競争率高し
このへんの敷居は、その気にさえなればたいして高くない。
でも帰りに公共交通機関の中で接近遭遇するとは、
東京ではまず期待してかなわないものだ。

ちょうどやって来た乗換路線に腰をおろしてからカタログを開いたら、
参考文献リストに講師の業績もたんと載っていた。
寡聞にして無知、重ねてご容赦を。
これはまた近いうちに、大学図書館に沈没せねば。
ただやはり、大きくいえば「靉光再評価」に関わる今日の講演内容は
まだ活字発表されていないようだ。
彼はとある県庁所在地の美術館勤務。
今日のお礼とお詫びと、そしてもう少し私自身の(興味の)background を
はっきりさせるなら、そういえば美術館気付でメールを出せばいいのだと
思いついた。

***
9月7日深夜。帰京後3週間経過。
・・・講師にメール、まだしてません。
美術館のサイトさえ検索していません。
ときに帰ったばかりの週明け、気がついたこと。
ワタリウムで靉光生誕100年展@東京終了の瞬間を迎えたときの
メモを発見。
「(…)巡回スケジュール:仙台~広島(…)」などとai-mitz
付箋にメモし、雑記用の rhodia に貼っておいたのだ。
講演のメモも、この rhodia に書いた。
それがなぜ&いつ「富山~神戸」に脳内変換されたか、大きな謎。
自分が馬鹿らしく悔しかったので、
講演メモのページにその付箋を貼り、カタログと一緒に撮影。
このヨーロッパの銅版画のような、でも実は
毛筆で緻密に描きこんだ一種の自画像が、
私にとっては日本近代の H.B. あるいは A.。
2007-09-05 [ Wed ]
(3)
そろそろ昼食をとりに下りようかというところで、
講演会のアナウンス。
そうだった。
こういうのは当たりはずれがあるので、
はずれの場合こっそり抜け出せるように、ドア近くの席を確保。

講師の顔を見て吹きだしそうになる。
さっきチケットを買ったとき、
隣に立ってカウンタに大きな鞄を置いた男性だ。
独特の匂いがするのは感じていたが、そういうことだったか。

話が始まって、またひそかに独り笑い。
洒落者で神経質そうな(そういう面もあるのだろうが)外見とは
ギャップのある、訥々とやや拙い話し方。
はっきり言って、話は下手だと思う。
講演の趣旨は「抵抗の画家」「戦争被害者の画家」といった
ステロタイプな靉光のイメージを覆したいというので、
正直主催の新聞社のコラムを読んで
あまりに素朴で安直な決めつけに、作品をよく知らないながら
違和感を抱いていた私は、ペンを握りしめて話に聞き入った。

・・・なのに、進まないのである。
1つ1つのエピソードは興味深く、自分の足で歩いて
資料を掘り起こし、関係者の話を聞いてまわった
フィールドワーカーの好奇心と苦労に共感する。
でも、本題は?
時計を見てはいないけれど、今そのエピソードを話していて
あなたの講演原稿、あるいはタイム・テーブルでは
ちゃんと時間内に話がおさまる予定ですか?(岡目八目

画家自筆の皇室典範だか教育勅語の墨書の画像が出てきて、
講師が何度もそれを出したり引っこめたりするので、
どやしつけたくなる。
床に自筆稿を置いて水平に撮影した画像に、
講師本人のものとおぼしき靴先が写っている。
ぃゃ、画像の下1/3くらいが靴である。
きっとここで、笑いをとるつもりなのだろう。
とびきりエッジの効いた講演の資料映像(動画)の冒頭に
ディズニー映画の一部を1-2分ほど挿入し、
「すみません、娘のヴィデオに重ね撮りを・・・」と
とぼけたガイコクゴでうそぶいてみせたのはある知人、
同窓の先輩の夫君。
その手はもう、古いんです。
今日の聴衆も緊張/謹聴しているのか呆れているのか、誰も笑わない。
それより「抵抗の画家」「反戦平和運動のシンボル」etc. etc. の
実証主義的反証は?(マダァ~~~

空腹と押してくる時間に急かされた私が荷物をまとめようとするたびに、
計ったように講師は論証やテーゼを小出しにしてくる。
これはさすがに意図的でない証拠に、残り時間を気にして
話をはしょろうとはしているし、
だのに面白いエピソードがあると、つい喋らずにいられないのだろう。
気持ちはよくわかるのだけど・・・

どうにか結論めいたものを講師が口にしたところで、
拍手もせずに講堂脱出。

ところが、この話もログも、まだ終わらないのである。

==
前衛アーティスト随行日記(連載中)を読みながら、
あぁあの頃はまだ夏だったのよねぇ、と思う。
汗だくの旅行だったというか、私が彼らに瞬間遭遇した時も、
通りがかりのコンビニで買ったミネラル・ウォーター2Lを
抱えていたのだ(笑 <詰替え補充用
台風接近中で明日は蒸し暑くなるとか、夏と秋とのはざまで
ul 作業もまだ終わらない・・・
2007-09-02 [ Sun ]
(1)
東京発・下り超特急に揺られながら、
今日はいつもと違う顔をしていると思った。
眉と唇をほんのちょっといじるだけ。
いつもと違うことをした覚えはない。

洗面所の鏡の前で髪をおろして、わかった。
祖父・周介の顔。
大叔母・伊都子の顔。
二人の故郷は、ここから遠くない。
不思議なことだけれど私は
自分が生まれ育った東京にいるときとは
別の顔をしていたのだ。

(2)
慣れた手順で、1日乗車券を買ってトラムに乗る。
昼前から、陽はじりじりと照りつけていた。
まっすぐ美術館へ。
特別展紹介ヴィデオをぼんやり眺めながら
しばらく額と足を冷やして、展示室に上る。

去年から今年にかけて、東京で何度か
逃がしたと思いこんだり、ほんとうに逃がしたり。
靉光に初めて出逢ってから何年にもなるのに、
実は予備知識はほとんどなかった。
「ブーム」かどうかは知らないがたしかに最近
メディアでとりあげられることが増え、
ともあれ短い創作期間の間にさまざまな作風を
試行錯誤のうちに経、
出征前に自分で処分したり
故郷の街が大戦末期に壊滅的被害をうけたりしたために
残っている作品がごくわずかしかないことだけは
わかってやって来た。
実際に観て強い印象をうけた代表作だけでなく、
もっと大きな創作活動全体のなかで彼を見たかった。

とはいっても、数少ない作品のひとつひとつが
足を留め、胸に落ちてくる。
その感覚を、印象を
今はまだ言葉にしたくない。できない。
画家のように、キャンヴァスに絵の具を何層にも塗り
それを削り、また塗り重ね・・・
そうしてゆっくり時間と得心をかけて
言葉を浮かびあがらせていきたい、
そのプロセスを味わいたいと思った。

お盆休みのせいか一般的認知度はけっして高くないせいか、
郷土の画家の生誕記念展というのに、
会場はがらがらだ。
休憩室のソファに座ったり、気に入った絵の前にしゃがんでみたり
自由にゆきつ戻りつ、
ぜいたくな時間を過ごす。
2007-08-25 [ Sat ]
2日めの夜から3日めの朝にかけて、
今までの旅やあれこれの断片が、朧ろげな形をとりはじめる。
思考停止、判断停止と決めたのだから何も考えたくない、考えられないが
いくつかの「リカヴァリー・ポイント」が見えてきた、と思う。

たしか2003年の夏だったと思うのだけれど、
 <そういえば Niki と出逢った夏
まるで警察国家の個人監視のように(ヲイ
毎日毎夜の所在について日本の中央官庁から届出義務を課せられた
スケジュールの中で、
1日だけ出国前に届けた予定行動を破った。
独りに、自由になりたかったのだ。
ちょうど週末だったのを口実に、官庁担当者には予定行動に戻ってから
週明けに事後報告したのだと思う。
中世の城がある、でも意外に19/20世紀転換期の建築物が街を彩る
小さな街を何周もし、白夜の空がまだ明るいのに
部屋に戻って死んだように眠った。
静まりかえった時間と空間。
翌日も同じく、街をぐるぐる。
そして、夕方到着するはずの私を心配し、また心待ちにしてくれている
親友一家に何度も電話して、「ごめん、もう少し待って」
「もう少し独りでいたいの。もう少しこの街にいたいの。
あなたたちに早く逢いたい気持ちはやまやまなんだけれど」と、甘えた。

たとえばその夏が、その週末が
ひとつのリカヴァリー・ポイント。
それから、それから、・・・
続きを思い出すのはあとにしよう。

ちなみに。
連絡は欠かせなかったとはいえ、最初の約束より何時間も遅れて
待ちあわせの駅のホームに
 <どの駅で拾ってもらうかも、個人的趣味で我侭を言った(照
立っていた友人とハグとキスをかわして、
私の第一声。
「洗面所はどこかしら?」
乗換駅で、コーヒー喫みすぎです。
小さな古都の夜の駅は静まりかえり、wc もすでに鍵が閉められている。
「だいじょぶ、そんなに急ぢゃないから」
のんびりことこと、高速と田舎道を走り、
着いた先でまたハグとキスの嵐。
はしゃぐ女子供の様子をにこやかに眺めながら、
出迎えてくれた友人はおっとりと私に言った。
「ところであなた、どこか行きたいところがあったんだよね」
忘れてた。そうでした。
「このドアだよ。あなたの荷物はこっちに入れとくからね」

日本の地方都市の中央駅で、列車を待ちながらエスプレッソで一服。
そんな間の抜けた再会シーンと、
そもそもそれより数年前、彼〈女〉らを東京駅で見送ったときの
少女の柔らかい頬を思い出して、心の中でひっそり笑った。
2007-08-23 [ Thu ]
朝、隣町へ。
拠点にした街の全国チェーン百貨店もそうだが、
大都市の中心部は東京もそれ以外も、
それどころか日本もヨーロッパも大して変わりない。
繁華街を素通りし、美術館へ。
昔東京のウォーター・フロントで見た、代表作の立体コラージュ。
色が変わっている気がしたが、あとで訊くとそれは経年変化で、
最初の発表後に手を加えてはいないという。
観終えたら昼前だったが、知人(とアーティスト氏)はまだ
美術館に来ていないと言われ、「来ました」とだけ伝言、
それからノートにサインを残して辞去。

常設スペースの関連小展と、常設品展示をさらりと観る。
日本でもかなり有名なアーティストや作品の他に、
もうちょっと(ずっと?)マイナーあるいはニッチな
現代アーティストの作品を発見。
1つは、昔東京で観た、かも、しれないもの。
もう1つはたぶん初対面、でも私の好きな女性アーティスト
Niki d.S.-F. のパートナー J.T. によるオブジェ。
美術館前の池?濠?に、Niki の回顧展を初めて観た
はるかはるか北の街の美術館前にも池があったと思う。
そこには白いヨットが何艘も浮かんでいたが、
ここでは白鳥のかたちの遊覧船が係留されている。

2展めの内容は、やはりまだ観ていないものだった。
日本では人気のあるテーマで(ここでもかなりの評判だという)、
東京ならかなりの大混雑だったろう。
友人にほんとに感謝。
ここでも会場は混んでおり、順番待ちで何度かソファに座りこむ。
人と人のすき間から、もう見た展示品の断片を眺め、
それにしても当時の人間に、これだけの難事業を決心させた確信は
なんだったのだろうと思いめぐらす。

最近の展覧会は会期中パスポート制とか、
当日なら再入場可とか、以前よりずっと融通がきくようになった。
倒れそうになったのでちょっと抜け出して、館内カフェで遅すぎる昼食。
戻って、戒壇前のソファで一瞬意識を失う。
さすがに限界だ。
展示室の後半をもう1度観て、売店をのぞく。
あぁ、ここでもまた。
数年前に東京で観た関連小展とは、
日本、アジアと欧米のアーティストによる写真グループ展。
懐かしい気がして手にとった絵葉書は、そのときの出展作品だった。
おぼろげな記憶をたどり、まだ持っていないのを何種類かおみやげに。
カタログは・・・どうしても欲しくなったら
東京のミュージアム・ショップで探すか、
ここの博物館に直接問い合わせようと決める。

美術館から博物館への移動中、Niki の彫刻を見つけていた。
戻って、携帯とフィルム・カメラで記念撮影。
で、バスに乗る。
都心部のターミナルまで行って、ひと休みしてから
そのまま隣町へ戻るか、美術館へ寄るかしようと思った。
ミュージアム・カフェで知人の伝言を聞き、コール・バックしたが、
はっきり約束はできなかった。
ヴェクトルはかぎりなく隣町と、ホテルのシャワーに向いていたが、
とにかくコーヒーが喫みたかった。
と、偶然にもそのバスが、美術館の近くに停まった。
急いで降りてから、「これからちょっと顔出します」。
ぁぁぁぁ、コーヒーが喫みたい。苦い渋い、香りのいいエスプレッソ。
展示室前のソファにくず折れていたら、向こうから見つけてもらった。
常設展の話になる。
J.T. を観たと話して、私はまた軽い興奮状態に。
市内で Niki と再会したのも、きっとそこに最初の伏線があったのだと
思ったから。
知人はそんな私の連想を知るはずもなく、J.T. と親友の
作品のつながりについて語る。
・・・そんなに何もかも、つなげないでください。
ところで上記、初期の代表作、音響面でトラブルが発生しているらしい。
私はリールが回っているのに気づいただけだが、
ほんとうは音も出ていなければならないのだと。
私と話していてそのトラブルを思い出したのか、知人もアーティスト氏も
浮き足だってきて、たぶん遭遇時間は10分たらず。
私も、帰ろう。
2007-08-22 [ Wed ]
トンネルを抜けてまっ先に眼に飛びこんできたのは、
鮮やかな赤と青のコントラストだった。
単色だけとっても、東京にはあきらかにない明度。

夕方、少し日が翳ってきてから街に出る。
とはいえまだまだ蒸し暑いが、水辺にいると涼しい風が
かすかに寄せてくる。
水の街、なのだろう。
とくにまったくあてはない。
土鈴が欲しい、ほかは。
列車の中でおおまかにでもプランをたてるつもりだったのが、
車窓風景にすっかり夢中になっていた。ずっと。
とにかく鼻先の向くまま、足探りですずろ歩いてみる。
蔭から蔭へと伝ってゆき、それでも熱に耐えられなくなると
通りかかったバスに乗る。
見学も観光もしないつもりだったし、
だいたい何も考えずに過ごそうとだけは決めてきた旅だが、
人を、街を、肌で感じたかった。

ふと、ここはある街に似ていると思った。
東京都下のある市、
というより私の感覚では、かなり独立した東京近郊の地方都市。
城のある街というくくりはできるものの
関東のそこは、現在の市街の周辺に山城が点在しており、
近世以降はむしろ宿場町として発展した。
近代以後の基幹産業も、この街とはまったく違う。
たしか。たぶん。
ただどうしてもその個人的感覚を捨てきれず。
どこをどう走ったかさえ覚えていないほど、手あたりしだいに
路線バスで巡っているあいだにメールが来て、
予定を繰りあげて会うことになった友人に
感想をぶつけてみる。
無反応。
無理もない。
モン・サン・ミシェルの地元民をつかまえて、
「トウキョウの近くにはこことよく似た、エノシマというところがあって・・・」と
講釈をたれるようなものだ(ソコカイ

部屋に戻ってから、翌日隣町へ行くならと勧められた
展覧会情報を携帯の pc ブラウザでチェック。
数年前、東京で関連テーマの小展を観ていた。
しかしどうやら、この大がかりな特別展はまだ観ていない。
さらに主催者を調べて、これは東京へは巡回してこないかも
知れないと思う。
隣町で訪ねる予定の、前衛アーティストの展覧会を朝いちに繰りあげ、
時間と体力に余裕があれば、2つめに回ることにする。

疲れと暑さと空腹に、ロック2杯はきいた。
熟睡。
2007-08-18 [ Sat ]
070817_0631~01_0001.jpg 070817_1649~01.jpg 070818_1137~01.jpg


〔foto left:これ欲しさにお城の売店へ行った 奴隷 土鈴.
 天守閣は登らず踵返し〕

「前に・・・・・・会ってますよね?」

〔旧い知人と、これはすれ違いだなぁっと思った最後の瞬間に
 どうにかハイ・タッチ的偶然接近遭遇成功.
 そこで彼がついてきていた前衛アーティスト氏、
 「初めまして」と挨拶した私に↑のように.
 社交辞令か、以前から展覧会を観ていたと上記知人氏が言ったのか.
 代官山、佐賀町、Ffm と作品は観てきたし、
 佐賀町で作品の前でバンド演奏していたのは覚えているが、
  <佐賀町っていつよ(爆
   << このギャラリーは新進気鋭アーティストの登竜門的スペースだった
 そのとき知人氏に紹介されたとはっきり記憶しているのは、
 戸川純もしくは YOU 似の個性派美人だけ・・・(微笑

 それぞれの街で、たとえ共通語を話していても
 微妙な言葉のアクセントを楽しんでいたが、
 アーティスト氏の話し方にひょいと懐かしさを覚える <ある意味啄木風
 前日、地元のおねえさんに「あなたの話し方憧れる.
 東京でしょ?その、ちょっと引いた感じがいい」と言われた私.
 tv インタヴューのときと違い、長年の親友と一服していた
 アーティスト氏は肩の力の抜けた風で、あーこういう処においてみると、
 なるほどアズマビトってやっぱりこうなんだと・・・
 自論である「あずまびとの引きや照れ」を自他に再認識した.

 それもだが・・・「前にあった」「つながった」体験満載だった
 今回の旅.満載すぎて別 log がいくつか要りそうなのだけど、
 アーティスト氏の展覧会から、前日別の友人に勧められた
 「話題の展覧会」へ市内移動中に見つけた Nana(N. d.S-F.)
 (foto middle)はその一例.
 最初はかすかな不快感と、自分の感覚を閉ざしてしまいたい
 欲求を抱いた Niki の作品だが、何度か遭遇を重ねるうちに慣れ親しみ、
 今は自分の肌の下に入ったというか、私の中にあるものが具象化すると
 たしかに Nana になる、感覚.
 だからこそ最初のとき感覚を閉ざしたい、肌の外においておきたいと
 思ったのだろう〕

禁煙席のないスタンド・カフェで窒息中。
在来線でコトコト移動するつもりだったが、
時刻表をめくって計算しているうちに断念。
今日じゅうに江戸へ戻るつもりなら(笑
もうすぐいちばん速い列車が来るので、
エスプレッソ喫みほしてここも脱出。
かの地にも Nana はいたんだったかしらん?
09:32

〔残念ながら Nana には会いませんでした(笑
 この地を訪れるのは、ロー・ティーンの家族旅行以来.
 ってことはほとんど、今回初めてみたいなもの(笑
 ひと言、実り多き1日だった.抱えきれないほど.
 昔の印象では(70年は草木も生えないと言われた街に奇跡のように)
 咲き誇る赤い夾竹桃が鮮やかだったが、今回は
 前の滞在地であちこちに見かけたきり、
 この街で眼を楽しませ、爪先を涼ませてくれたのは美術館の借景で
 旧藩主庭園の槙の白く粉をふいた細い葉と、まだ薄い緑の松かさ.

 美術館に予定以上に長居したが、外はまだ濡れたように暑く.
 トラム(foto right)で遠回りして、車窓に流れる街の風景を楽しみながら
 移動.
 これは私の定番のお遊び.生まれ育った東京でも(笑
 それに日中40℃になんなんとするこのお天気では、
 直射日光を避けながら市内見物をし、ついでに(笑)移動もできる
 バスやトラムはまさしくオアシス.
 路線バスは、地元の人の日常も見られるし.

 私の好きなアーティストがデザインした橋(昔はそうと知らずに
 渡ったが)は時間の都合で諦めたものの
  <オブジェは美術館の常設で邂逅
 一瞬焦って車窓風景を忘れ、携帯で東京駅発の終電を検索(爆
 まぁそこまでのことにはならず-そうなったらなったで、急遽ここに1泊の
 つもりだったが-、中央駅で荷物をとり、おみやげも買って、
 バスでいえば「青」、東京行き最終より1本前の超特急に滑りこむ.
 最後に観た美術展のカタログをしっかり抱えて(照〕

19:33発車、20:08座席 get。
覚悟してたが、今日の長距離移動は立ちっぱなし。
でもこれで大江戸のシンデレラにぶじなれる。
2007-07-21 [ Sat ]
昔、友人の元パートナーが1年間の予定で
日本にやって来たとき、伯父に電話した。
外国語が堪能で、外国人の相手も慣れている人なので
何かあったら力になってほしい、
だから彼女に伯父の連絡先を教えていいかと。

快諾した彼は、彼女の名前を聞いてふっと黙った。
昔同じ名前(人種も同じ)の女友達がいて
兄のようになにかと頼りにし、慕ってくれていた。
できる範囲で力になっていたのだが、
ある時どうしても仕事の都合がつかず、会わなかった。
それから間もなく彼女は死んでしまった。
そのとき会いたいという、どんな用事があったのかの事情も
なぜ死んだのかその理由もわからずじまいだったけれど、
たった1度わがままを聞いてあげなかった後悔と自責の念を
私の頼みごとで思い出したという。
それもあって、私の友人の友人にはできるかぎりのことを
してあげると。
「ただ、あの国の人たちは気はいいけれど
感覚は日本人とはかなり違うからね。
お前もお人好しになりすぎて、
振り回されないようにしなさい。
彼女だけじゃなくてね、あの人たちのことに巻きこまれると
ほんとうに大変なんだよ」

伯父の青春の感傷も、
冷たいエゴイストにみえて実は気弱で人が好いことも
よくわかっ(てい)たけれど、
彼女の名前は、その国ではありふれた名前だ(笑
ただ若くして死んだその女性の話は、
親戚じゅうの誰からも聞いたことはなかった。

知人女性は憧れの日本の現実を知り、
たいへんな失望と苦労を味わったようだが、
誰の助けを借りて苦境を乗り切ろうとするのでもなく、
彼女の決断は契約を中途破棄して帰国することだった。
強烈な第六感に衝き動かされた私が
伯父の忠告を忘れたわけではないけれど
つながらない電話を必死にかけつづけていたちょうどその頃、
彼女は一切合財をひき払って国際線に飛び乗り、
眠り慣れたベッドに倒れこんでいたらしい。
それからさらに何ヶ月もたって、伯父が
「あの話の人はどうなった。元気で頑張ってる?」と訊くので
私は「元気みたいよ---ヨーロッパでね」と答えた(笑

彼女の日本での仕事にまつわるニュースが
先日ひとしきり大きな話題になったのと、
その他あれやこれやで、久しぶりに思い出した。




... was hat man dir, du armes kindlein,
                  angetan? ("Mignon")
2007-07-01 [ Sun ]
電話はかかってこなかったが、
かかってくるに違いないと毎年無意識に構えるほど、
もう恒例になっているこの月はじめ。
カサ・ブランカを飾って、
どうかいい声の神父さまがパニヒダ(死者の記憶)の
ミサをあげてくださるように、
どうか詠唱をはしょったりなさらないようにと
妙な念じごとをする。

ちょうどこの朔日が、マルファの記念日にあたる。

早くに逝った祖母は私が生まれる前から
古い小さな家の片隅でほの白く微笑むセピア・カラーの写真だったし
(その前の席が私の定位置だった)
ぴったり懐いていた祖父は逝ったひと夏の記憶を私から奪っただけで
今は静かな温かい影だ。
・・・ときどき古い思い出の中でおどけてみせても、くれる。

春からずっと「定点観測」を続けている
紅白のさるすべりの樹。
白はもう最初の花が足もとを染めて、
新しい蕾を次々ふくらませているけれど、
紅はしんねりと逞しく、葉芽をぐいぐい伸ばしつづけるばかり。
まるであと3週間を心穏やかに過ごしなさいといわんばかりに。

鋼の聖母がじわじわと手足を縊っていくかのような
忘れかけていた感触に抗いながら、私を
慰め守ってくれているのはやはり、このさるすべりたちなのかも知れない。

人は、花は、葉や実は朽ち落ちて土に還り
その土もまた落ちつづけて無に還る。
生きた証をとどめてくれるものは
生きている者の中の記憶だが
その記憶もまた土に、無に還っていく。

ただそうしてあまたの生を、記憶をくるみこんだ無ならば
そこへ還ることに不安や恐怖はない。
願わくば今少しこの魂を地上にとどめて
うつし世の歩みを続けさせてください、と。


日曜日の靴は黒、しかもエナメルと
子供のころはお約束。
『赤い靴』の悲劇が肌身に迫って感じられて、
いつも読みながら震えていた。
『パンを踏んだ娘』も。
なのによりによってこんな日曜、
赤いブラウスを買いに行くつもりだった罪を懺悔します。
なので今日は日々のパンを感謝しておいしくいただき、
ブラウスは明日買いに行きます。
明日はココアを我慢するので、
1点もののブラウスが売り切れていませんように・・・(切々

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2007-06-04 [ Mon ]

ich denke immer noch oft an dich,
meine liebe freundin!

2007-03-21 [ Wed ]
崖の上からは足もとに黒い湖と、
遠景に平野と大河を望んだ。
爪先の下をまっすぐ見下ろし、
振りかえって
「ねぇ、マルガリータの母親はなんて名前だった?」と訊いた。
返事がないのでまた断崖に両手を広げた。
「ローレライみたいだ」
背後から声。
「マルガリータの母親は、こんなところから落ちたんだった?」
あとに遺されたエーデルワイスの花冠。

 彼女を手もとに引きとった大尉は、
 心を閉ざした彼女を、ただ黙って傍において守りつづけた。
 やがて彼女は笑うようになり、娘が生まれた。
 しかし山歩きの最中、子犬をかばおうとして
 妻は谷底へ落ちた。
 声ひとつたてず。
 大尉はただ白い花が背後でゆっくりと舞うのを
 一瞬の幻のようにおぼえただけだった。
 白いドレスにふんわりと受けとめられて
 子犬は無傷でくんくん鳴いていた。
 その日から無頼者の大尉は人間が変わった。
 エーデルワイスの花冠は大切に家に置かれ、
 マルガリータにとっては唯一母の形見となった。

崖の上で撮られたスナップ・ショットでは
たしかに白いシャツと長いスカートの女が
陽ざしと汗に火照った笑顔をみせている。

背中から見守ってくれる眼があれば
行く手を導いてくれる肩があれば
同じほうを向かって歩いてゆけた。

そして
このローレ・ライは
あるとき虚空をつかもうとして奈落へと足を滑らせたのだった---

(freie composition nach Fr.Frhr.v.H. und A.S.)
2006-09-20 [ Wed ]
古い写真を見せられた。
小さな女の子が古い家の前に立っている。
人見知りは人七倍くらい強いはずだが、
ほよんとくつろいだ表情。

「ね、可愛いでしょう」
「ほぅ・・・」
「さらってかれないか心配でしかたなかったわ」
「う゛~~~ん・・・
私もさらっていきたいかもしれない。
でもすぐに見透かされて、さらわせてもらえない気がするわ」

爆笑。

写真の女の子は、4つくらいのときの私。
最近家を1軒ひき払ったので、昔の写真をいろいろ譲りうけてきた
中にあったものらしい。
「すごく可愛い」という予告編は誇大広告か、
でなければ「昔はこんなに可愛かったのに・・・」という
過去完了形の当てこすりと思っていたが、
あながち嘘でも皮肉でもないのである。
カメラ・マンは祖父なので、安心しきって甘えた姿をしているようだ。

でも。
なんだか、可愛くない。
あどけない女の子がくつろいだ姿なのに、なぜか隙がないのだ。
「オバチャン、怪シイ」私は小さいときの自分の口真似をしてみせた。
「オバチャン、変ナ人。
私ツイテイカナイ。ココニイテ遊ンデルワ」
また爆笑。
「そんなことおっとり言われたら、怖くてさらってなんか行かれないわ」
大人になった自分をさえ怪しんで懐かない子供って、なによ。
もちろん怪しまれて懐かれない大人も、なによ。
・・・こんなふうに自分をすらつき放して見るところが
相変わらず可愛くないのよね、
というかこういう皮肉屋で毒舌家のところが、
祖母の DNA をそっくりうけ継いでいる遺伝体質だ・・・と、
笑いながらふと思った。
2006-09-19 [ Tue ]

夜と朝のあいだで、稲妻が光った。
遮光カーテンを閉じていても、空一面照らされたのがわかる。
それでもかまわずキーを叩きつづける。

やや遅れて雷鳴が轟く。
指先にぴりりと痛みが走った。
そのまま記憶ごと遠くへひき戻された---

キャンプ・ファイヤーを囲みながら意識が遠のきかけた私は
有無を言わさず車に積みこまれた。
気持ちが昂っているのか落ちているのか、
日本語でずっと喋りつづける。
そして、どうしても自転車をピック・アップして
乗って帰るのだと、寝言のように言いはった。

野外パーティの会場から小さな車で搬送されてくる間に
暗闇に乗じて嵐は私たちの背中をとらえていた。
静まりかえった路地路地を抜け、
自転車で鉄道の跨線橋を渡ったところで
すさまじい雷雨が2台の自転車を襲った。

つき刺さる雨。
凶暴な向かい風。
街灯もない幹線道路に
時おり稲妻が光って、白い雨脚を煌々と照らす。

ふり向いて投げてくる声を雷鳴が遮る。
叫びかえそうとする言葉を雨と風が塞ぐ。

それでもなぜか、私が行こうと言った緩やかな上り坂を登りはじめる。

爪先に体重をぜんぶかけて漕ぎのぼりながら、まちがいに気づく。
胸突き八丁ではあっても、もっと手前の坂を行ったほうがよかった。
遠くまできてこの緩い坂、ゆるいだけではなくて
延々とループ状に高台へと高まっていくのだ。
でも必死に先導するアオと騎手の背中に
そんな言葉を投げつけることはできなかった。

丘を登りきるとできすぎた皮肉のように
たちまち嵐は静まった。
熱いシャワーと乾いたタオルで息を吹きかえして、
迎えた朝はからんと晴れあがっていた。
階下へ降りてゆくと
玄関の横に停めた自転車がぴかぴかに乾いて主を待っていた。
2006-09-15 [ Fri ]
「大好きな***へ
元気ですか?
私はとっても元気だけど、あなたがここにいないのが寂しいです。
また会いたいです。
あなたの****」

急に、そんな一節を思い出した。
宛先は年上の友人男性。
差出人は共通の知人の娘。

なぜ愛に溢れたその言葉を知っているかというと、
「ここにいない***に絵はがきを出しましょうよ。
また彼が来たくなるように」と私が発案して、
大きめの絵はがきを選んでみんなで寄せ書きをしたからだ。
で、12歳の娘が最初に勇んで書いたのが、↑の言葉だった。

私が宛名を書いていたら、小娘がその手もとをのぞきこんで
「ねぇーなんで漢字で書かないのよぉー 〔<日本語に興味津々〕
なんでアルファベートなのよぉー」とうるさいうるさい。
友人は私のアルファベートの筆跡ももちろん知っているのだけれど、
「日本語で書いたらすぐ、誰の字だかわかっちゃってつまんないでしょ。
ぜーんぶアルファベートでエァ・メールが来たら、
***もちょっとはドキドキするでしょ」と答えた。
しかもいちばん最初に、あんな切ない言葉が並んでいるのだ(微笑

東京で、***は私を見かけるとスキップでもするように歩み寄ってきた。
眼尻がでれでれ下がっているので、なんの用だかまるりとお見とおし。
「****ったらそのまんま私にくっついて飛行機に乗って、
トウキョウヘ一緒に来るってきかなかったのよ」と言ったら
相好があとかたもなく(笑)崩れて、
この顔を撮って送ってあげたいと思った。

東京で会ったときはまだ****は小さくて、
***のコートの中に入って、カンガルーの子のように
顔だけ出して笑っていた。

その夏、東京で私に教わったという折紙を次々披露してくれ、
一緒に学校へ来て日本の歌や遊びをみんなにも教えてくれと
はしゃぎっぱなしだった****は、
私が(何日か滞在して)翌日次の滞在地へ行くと知ったとたん
泣いて泣いていつまでも寝ようとせず、大人たちを手こずらせた。
翌朝早く学校へ行く前に、私の部屋へお別れの挨拶に来てくれたけれど、
あーたハグしても棒立ちだったがや(爆

次に***や私に会うのがどこだとしても、
もう年頃の娘になっている****には、
自分からちゃんとハグとキスをさせます(キッパリ
2006-08-29 [ Tue ]

L.B. spielt F.L.

2006-08-19 [ Sat ]
日々創りだされ 流れさっていくものの
その先に
何が待っているのだろうか
きっとこれまでと同じように
せわしなく ぎこちないであろうなりわいの向こうに
なに色かの 色のない なにかのしるしが漂っている
もう少し近づかないと よく見えない
それが見えたとき それに触れたとき
潮は満ちているのか 干いているのか
後じさるのか
身を投げるのか
2006-08-15 [ Tue ]
 -または 森ゆく人々 die waldgaenger ~ボヘミアとモラヴィア 2-

違う、、、

8月15日にいたのは、3つの国境線が交わるボヘミアの小さな村。
首都から回っていったのだったか・・・
都会のカフェで見かけた中年の夫婦がこの村にもいて、
人懐こい笑顔を投げていった。
小さな記念館のゲスト・ブックに残された
フランケンの小さな町の高校教師の名前。
戸口の花崗岩の切り石に腰かけた
永遠の少年少女たちのスナップ。

"dobry den!" --- "dobry den!"
"na shledanou" も "dekuji" も、
ひとつ覚えで唇にまろばせる異国の言葉たち。

ほんとの国境の岩山の頂から
見下ろすボヘミアの森と川と、湖。
崖の上のローレ・ライ。
足もとには喬木林 hochwald の黒い湖。

野苺を摘んで後ろ手にさし出す掌。
道の端のせせらぎに浸す足。
唐檜のぼっくりや平たい石をおみやげに。

流暢な外国語を話す、狩小屋風旅籠の若主人。
小屋の裏の養蜂箱。
玄関の籠に盛られた茸たちの噎せかえるような香り。
毛皮のカーペットが掛けられた客室。
「鼾で眠れないから、アパルトマンに戻りたい」
針葉樹の蜂蜜だけを求めて帰った。
2006-08-15 [ Tue ]
 -199X年8月15日-

その日はたしかボヘミアの古都にいて
昼も夜も惜しんで、百塔の突きだす迷路のような路地を
あかず漫ろ歩いていた。
その夜は久しぶりに鼾の聞こえない部屋で
(階下は夜っぴて阿鼻叫喚だったろう・・・)
大きな羽枕に涙と忍び泣き声を注ぎこんでいた。
ため息も長いしっぽをひきずっていた。

翌朝、庭先のシェパードとポメラニアンを
撫でる手が優しく温かかった。

その夏疾けまわったボヘミアとモラヴィアの町々に野山に
帰途にはいつもまん丸な天穹がしっとりと覆いかぶさって
真黒い森々と溶けあっていた。
月の姿は夜々移ろい、ちゃんと磨いていない窓ごしにも
星の微かな瞬きは睫を、胸を震わせた。

アパルトマンの窓の下にあった
不思議な宿り木を角のようにたくわえた小さな木は、
なんという名だったか。
その窓から、仏蘭西製の紫煙をゆらゆらと上せていった
いくつもの夜---
2006-08-15 [ Tue ]
一人はあかりをつけることが出来た
そのそばで 本をよむのは別の人だつた
しづかな部屋だから 低い声が
それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

一人はあかりを消すことが出来た
そのそばで 眠るのは別の人だつた
糸紡ぎの女が子守の唄をうたつてきかせた
それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

幾夜も幾夜もおんなじやうに過ぎて行つた……
風が叫んで 塔の上で 雄鶏が知らせた
――兵士〔ジアツク〕は旗を持て 驢馬は鈴を掻き鳴らせ!

それから 朝が来た ほんとうの朝が来た
また夜が来た また あたらしい夜が来た
その部屋は からつぽに のこされたままだつた

(mit.Tat.「暁と夕の詩」)
2006-07-25 [ Tue ]

いつのことだったか覚えていないが、ある時妹と2人で祖父の家へ行ったら
途中の線路端(土手の上)に車椅子の祖父がいた。
私たちはみょうにはしゃいで、「おじいちゃま一緒に帰りましょ」と
両側から車椅子を押した。
ワーシャはいつになく慌てたようすで上半身を後ろにねじり、
「いい!いい!」と叫んでいたが、私たちはわぁーいと笑って押しつづけた。
小さな和室の居間を睥睨するベットの上という定位置に戻ったワーシャは
陽ざしの名残を頬に残したまま、私ほど厳しくしつけなかった妹もいるので
いつもより温和で優しかったが、

どてらにくるまって気持ちよさそうに冬の午後の陽を浴びていた
祖父の姿を思い出すと、ほんとうはあの時祖父は
もっと陽なたぼっこをしていたかったのだろうな、
なぜ連れて帰ってしまったのだろうなと思って、
それもあって夏の弔いの庭を奔走しながら
私は涙が溢れて止まらなかった。
80歳の誕生日の前夜、病室に忍びこんで「明日来られないから」と
こっそり讃美歌を歌い、
それをモニタで見ていた看護婦さんたちが
誕生日には孫娘に代わって讃美歌を歌ってくれた、
その翌日の午後、ワーシャは天国で誕生日を迎えた---
さすがはよくできた孫娘だと私はみんなに誉められたけれど、
冬の日の小さな不孝が心に刺さっていて、それは違うような気がしていた。

月曜日がワーシャの天国での誕生日で、
朝熱いシャワーを浴びていたら、突然どてらで車椅子に乗った光景を思い出した。
右半身の自由を失った身には、そこまで一人で来るのは大仕事だったろうに。
シャワーを頭からかぶって、しばらく泣いた。
こんな日に母から電話がかかるのは(毎年のことだから)用件はわかっていたが、
この想いは独りで抱えていたくて、いちんちコールを無視しつづけた。

ワーシャは私が小学校高学年のときに言葉を失った。
だからいちばん多感な年頃に言葉で導いてもらうことはできなかったのだけれど、
私の何気ない言動に
それはワーシャがいつも言っていたことだとか、
見ているとなんだかマルファ(早世した祖母)そっくりだとか
評されることは、むしろ大人になってから増えた。
マルファとワーシャが逝った7月にはそれで
思春期にワーシャのお説教をくらっていたら
幼い日々マルファと一緒に過ごした時間があったら
私の人生はどんなふうに違っていたのだろうと、毎年考える。
2006-07-17 [ Mon ]
その年の今ごろは冷たい雨が続き、
私は長袖を持ってくるようにと電話で言った。
気がついたら長袖ばかり着ているので笑ったら
あなたの言うとおりにしたのだと反論されて、また笑った。
あまり強く睨んだので眼に焼きついたその夏最後の姿では
マドラス・チェックの半袖を着ているのだけれど。

その年はたくさんうみを見た。
ヨットをたくさん浮かべたうみ、
黒々と針葉樹に囲まれたうみ・・・
だからなのか、酔った勢いでガイコクゴで呟いた言葉は
まさしくそのモティーフを美しい韻律で織りあげたもの。
あまり胸を衝かれたのでその言葉は今も
私の奥底にしっかりと刻まれている。

sei la nave --- sono il mare.

2006年 海の日に
2006-07-11 [ Tue ]
ほんのひと言でも独り言を口走ると
祖父は孫娘を厳しく叱った。
正座しておじぎがきちんとできないと
敷居ぎわの畳から奥へ入ることを許されなかった。
箸の持ち方が少しでもよくないと
食べているまっさい中でも持ち直させられた。

暑い日、雨の日のヒバの香りが
小さな子供はひどく苦手だった。
枝折り戸を開けると、柿の樹の根もとに
ぎっしりと金魚鉢。
魚と水草の湿った匂い。
酸素ポンプのモータと水泡の音。

台所に呼ばれると、床にバケツが並んでいる。
小さな手が張り切って運ぼうとするのを制して、
大きな手が水に錠剤を放りこむ。
「それは何?」
「はいぽだよ。これを入れないと
金魚は中で生きていけないんだ」
地下水を汲みあげたままのその水は
都心に近いと思えないほど、公団育ちの子供には
澄んで甘かったのだけれど。

その家も金魚も、柿の樹もワーシャも今はない。
ただアンティークのような形をした鍵だけが
1本の鍵だけが
昔面白がっていくつもいくつも作ってくれた迷子札のように
彼方には還る処のあることを教えてくれる。
マルファとワシリィの手の中に。
いちばん愛された孫は自分だと
それだけはつゆ疑ったことはない。
2006-06-30 [ Fri ]
最後の1本と称する葉巻

灰皿に積みあがってゆく細巻

人それぞれの時刻表

待ち合わせ場所の指定は正確に

2006-06-30 [ Fri ]
モノレールから見た光景は、思ったほどには変わっていなかった。
万博を中止し、再開発がストップしたせいだろうか。
ただ、昔ひどく心をとらえられた巨大な倉庫のような工場のような廃墟が
いったいどのあたりにあったのか、今はまったくわからない。

ただ進むごとに、古い記憶のかけらたちが曖昧な時系列で浮かびあがってくる。
やはり蒸し暑い日だったけれど、それはたしか残暑だったはずだ。

空港ビルを出て、スナップを撮る。
南の州都の空港を思い出す。
就航10年ほどの新空港は田園地帯に忽然と現れ、
あたりには不釣合いな肥料の匂いが、車の窓を閉めても滲みこんでくる。
それから北の古都の、夜は閑散とした空港。
お客の動きに合わせて内へ外へ大移動を繰りかえす、
アラブ系のタクシー・ドライヴァたち。
リムジンの窓に映った、満月と見まごう街路灯。
できうるかぎり「表玄関」の国際空港を避け、
時には双発プロペラ機で小さな空港に降りるのが好きだった。
「空港ビルを見たい」というのはとっさの理由で、
飛行機が離発着するのを見たくて来たのだ。
新国際空港でさえ土地の買収と滑走路の整備が進んでからは、
じわじわ焦らすような滑走と離陸の感覚は楽しめなくなったけれど。

べたつく空気を指で払いながら、展望デッキに立った。
西陽と機体の照りかえしと、湾の水面のゆらめきと靄の中で、
飛行機たちが飛びたった方向を教えてくれるのは、ジェット・エンジンの轟音だけだ。

ビルに戻りながら、昔はこうして、その日いちばん楽しくない場面へと
向かっていったことを思い出す。
ただ今日は都心へ戻るまで空腹をなだめられそうなのが、よかったと思う。

都心へ戻ったら、風がずいぶん乾いていた。
展望デッキのあの空気の肌触りは、やっぱり潮風だったのだ。
暑さでへばった私を、ラテンのカクテルと音楽が元気づけてくれた。

* * *
関連短編ログ:
みたび早春 M... - Franz-Josef Strauss
月はどっちに出ている
初秋 東京-東京国際(羽田)
W... - Schwechat
2006-06-20 [ Tue ]

ここもそうだった。
Sバーンの駅前から、並木道がのびている。
商店街や公共施設の奥には住宅街。
古い土蔵もちらほら。
そんな並木道 allee を抜けると街道筋につきあたる。
とりわけこのルートでは、街道に出る手前に
浄水場があたかも古墳のように、
縁どりに緑地帯を従えている。

浄水場やダムは私にとっては
「堰きとめられ矯められた生命」の謂いではなかったか。
まさしくジヴァゴとラーラの娘のように。
しかし sentimental な映像詩人が少女にバラライカを持たせたように、
囲いこまれていてもそれは水の在り処を土地に刻み
緑と風をはぐくむ存在ではあるのだ。

このあたりの街道では
深々とした緑地帯が車線を分けている。
これも、「矯められた生命」。
けれどこの上水路もまた何百年ものあいだに
土地の原風景となり、空をおおう街路樹が
今は濃いあおい翳をあたりに落としている。
私が生まれるよりずっとずっと前、この川は
無頼派文士の道なき恋の最終地点 station となったほどに
深く果てない懐を広げていたのだ。

風翔けるヨットのイメージを描くには
この浄水場も上水路も、ちょっとささやかすぎるかも知れない。
けれど---
ここでも、人は死ねるのだ。
〈百日紅の花にはまだ早い〉
だから、ここでは人は生きられるのだ。
〈やがて百日紅の花も咲くだろう〉
文士が聖ネポムクよろしく
この川と街道から遠からぬ処で、ここを守りつづけている。

先週の祥月命日をすっかり忘れていたので、
文士がこっそり呼んだのかも知れない・・・
2006-06-04 [ Sun ]

天安門事件から17年。
香港返還からもうすぐ9年。

彼女はまるでプラハに戻ったテレーザのように
日々の現実だけに心を集めて暮らしているようだ。
「昔のちょっとエキセントリックなところはなくなって
すっかり落ち着いちゃった」と友は言うけれど、
私たちはもちろん、生き生きした彼女が大好きだった。

彼女の幸せが今度こそ
「厳」の上に堅く建てられたものでありますように。
2006-05-07 [ Sun ]
(i)
釣鐘型の山に登った。
列車からあんなに迫って見えたのは、
登山口までの坂もかなり急だったせい。
勾配は急峻だったがよく整備されていて、
ただ時々汗を拭うために足を止めた。
道のすぐ両端はいかにも造園の手が入った植えこみだが、
そのもう少し先に雑木の植生が残っている。
いつどんな目に遭ったのか、
立ったままひき裂かれたなにかの広葉樹の残骸が
まだ白く雪をかむった霊峰の視界を遮る。

エーデルワイスの花冠のように谷底に叩きつけられる慎ましやかな女も
断崖から自ら身を躍らせる魔性の歌姫も
幻影たちは指先と爪先でふり払ってゆく。
番小屋があったという小さな崖の突端の岩に
膝丈ほどの若い杉の木が誇らしげに枝を張っているので
「危険 立入禁止」の札を無視して近づく。
微笑みかけてカメラにおさめる。

足もとの可憐な菫が凛然とした紫に咲いて、
笑っていなさいと語りかけてくる。

振りかえると、山並みの底に
紡錘形に白っぽく浮かぶ寂れた宿場町。
山頂から見下ろした反対側には、
川沿いや幹線道路ぞいに散らばる集落たち。

ここは中世の修験道の地、
そして戦国時代には要害の城が築かれたところ。
今は当時を偲ばせる人工物は何もなく、
新緑に包まれた岩山だけが空へ向かってせり上がっている。

別の獣道を下りる。
途中、さらに脇道を少しくねり上って権現様に参ってゆく。
洞窟の足もとや奥にかすかな音が響いているのは湧き水。
ふと、あの岩山でも、ゲルマンやスラヴの神様に会いたかったと思う。

(ii)
そちこちの鶯は、もうすっかり軽やかで誇らしげな歌いっぷり。
アウトバーンやラントシュトラーセにはさまれた、平地の集落を抜けて歩く。
大型連休を気ぜわしく楽しもうとする世間をよそに、
小さな畑をいとおしげに守る人たち。
家の前で煙草をくゆらす、まだほんとうに若い息子が呼びに走ると
勝手口からは割烹着姿の母親が顔をのぞかせる。
母屋の陰の小さな小屋から、カンカンキンキンと金属音が飛び散ってくる。
東京から山とトンネルをいくつか越えただけなのに、
人々の言葉も気質も生活も、メガロポリスとは異質のものが
ここにはごくあたり前にある。
木蓮も八重桜も躑躅も山吹も、ここではいっぺんに咲き誇っている。
果樹は枝を短く切り詰められ、幹にじかに若葉の緑をまとって立っている。
払われて農道に転がった小枝たちの中から桜を2本拾う。
打ちあわせると硬く乾いた音が、嬉しそうに歌う。

(iii)
バスに揺られて山深く入る。
何度となく走った、鉄道の南側の国道に似ているが、
ここはもっともっとうら寂れて長閑だ。
こんな好天気に、川を横切っていっせいにはためく
鯉幟の鮮やかな色彩はなく、
ひかえめな花の色ながら、あたりの雑木の樹冠から
ついと頭ひとつ際だつ桐の木もほとんどない。

ダム湖を2つ見る。
山の緑はほとんど凶暴といってよいほどいっせいに萌えだす直前の
若々しく、初々しくまばらな色むらが心を和ませてくれる。
ダム橋の上で所在なくきょろきょろ見回す一団の他は、
人も猿も気配はない。
このあたりは渓流釣りが盛んなのだが、いちばんのスポットは
ダムと発電所建設のために禁漁区になってしまったという。
あの岩山の下のダム湖一帯は保養地で、
湖にはヨットが浮かび、
近くの森には狩小屋を改造した小さな宿に
外国語の堪能な若主人が小さな蜂箱も持っていた---
ここのいちばん新しいダムのへりに、
つけたりのような「公園」と称する angeblich スペースを確保するためだけでさえ、
31家族が住みなれた家を失った。
環境保全に万全の配慮をして築かれたというこれらのダムが
ふたたび周囲の自然に溶けこんで、ほんとうの湖になるまでには
どれくらいの歳月がかかるのだろうか。
小さな山城を麓で守り、
城が焼け落ちたあとも、何百年後にも
太古と変わらぬ黒々とした水を湛えつづけた名も知らぬ湖のように。

(iv)
セメント工場は、こちら鉄道の北側にも散見される。
南側だけしか知らなかった頃から不思議だったが、
この山塊をさらに北へ辿ると、
全国的に有名なセメントの産地の山系に連なるらしい。

家臣に裏切られた戦国武将が岩山の城を捨てて自害した日も
一族を滅ぼされた姫が峠を越えて、東の城下町の寺に身を寄せた日も、
それどころか近代まで、多くの家がお蚕部屋を持って絹織物で繁栄した日も
どこかへ置いてきたかのように、山あいの集落はどこもまどろんでいる。
街道筋まで下りてきても、こんなところをわざわざ走るよそ者の車も疎らで、
ただ時々、コンビニの前に
磨きぬかれた大型バイクが停まっているだけだった。

このささやかな旅にも、A.S. を連れていった。
読むつもりではないし、今までも旅の途中でこの本をほとんど読んだことがない。
ただ自然と人間が鬩ぎあい、けっきょく人間の小さな営みが
自然に包みこまれてしまうこの一帯の風景に、A.S. はどこかふさわしい。
2006-04-21 [ Fri ]
20代半ばころ、素人手相見をしてもらったことがある。
「あなたは」その人は顔を上げて言った。「ご両親と早く死に別れてらっしゃいますね」--「あの...うちの両親は、2人とも健在です」--「そうかも知れません」したり顔。「実際の生死には、関係ありません。精神的に、早く親と別れる相です」
私は笑った。
自分では手相を見ないし,それがほんとうに当たるのかも、さほど興味はない。言葉づらだけから推測すれば、「家族の縁が薄い」というのを、婉曲に言ったものだろう。
ともあれ初対面の人に図星をさされて、私は笑った。
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2006-02-21 [ Tue ]
この間男子フィギュアで、エフゲニィ・プルシェンコを観た。
演技のみごとさは言うまでもないが、はっとしたのはそのあと。
満場の喝采に応えながら、ロシア十字を切っている。
幾度も幾度も。
何年も前サンクト・ペテルブルクのワガノワ・バレェ学校の特集を
TVで観たとき、プリマ・ドンナも舞台の袖でロシア十字を切っていた。
彼〈女〉らにはごく日常のしぐさなのだろうし、
私も十字を切れといわれて自然に手が動くのは、ローマ式でなくロシア式だ。
待機席で得点を待ちながらカメラに手を振ったり投げキスをする
プルシェンコは、普通の美しい若者だったけれど、
私がはっとしたのはまだまだあと。
金メダルが確定し、リンクを回ってまた観客に愛嬌を振りまきながら、
彼は指先で氷に触れ、その指にキスし、十字を切って
周囲に大きく手を振った。
幾度も幾度も。
とりわけ1度めのそのしぐさは、まさしく氷にじかにキスしたのかと思うほど
大きく屈みこみ、跪かんばかりだったのだ。

ワーシャは小さい孫娘にお祈りや歌を教えることには厳しすぎるほど熱心でも、
ロシア人たちのように教会の床やイコンや十字架にキスさせることはしなかった。
彼がしている姿も記憶にない。
ワーシャをここで見送ってから、自分でもロシア人のようにしてみようと思うのだけれど
跪いて床にキスすることはもちろん、
床に指で触れるしぐさも、イコンや十字架に触れた指先を唇にあてるしぐさも
ひどくぎこちないのを、私は自分で知っている。

どこかで、教えてないしぐさをする私を訝しむ祖父の眼を気にしているのかもしれない。

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